大衆小説論1

ホラー小説・映画論(「壊れ」と「格差」と「戦争」の時代とむきあう試み)


講義内容

グローバルな〈帝国〉が世界をおおい、「第一次世界内戦」ともよばれる「新しい戦争」がすでに見えにくいまでに常態化している現在、他者の殲滅をめざす「戦争」のスプラッタ(血しぶき)から遠ざかり、創造的自滅としての「ホラー的なもの」への途を考えます。戦争的な熱狂に、冷たい暗闇のスプラッタを大量に浴びせかけてやりましょう。

ここで「ホラー的なもの」とは、「解決不可能性による内破」です。

問題がたてつづけにおきるにもかかわらず、いっこうに解決されない。そんな解決不可能な問題群がどんどん蓄積され、あるとき、とうとうたえきれなくなったいれものが、ぱちんとはじける。「壊れる」。わたしたちの社会が、そしてわたしたちじしんが――「壊れる」という言葉はいま、いたるところにひろがりつつあります。

構造改革(新自由主義)がもたらした労働と生活の「壊れ」(格差、非正規労働の拡大、新しい貧困……)は放置されたまま、「政権交代」政党による交代前以上の悪政は、「解決不可能性」をのみおしすすめています。

わたしたちの時代のホラー表象は、こうした「ホラー的なもの」に、「壊れ」につながっているはずです。つまり、恐怖の表象は、わたしたちじしんの表象でもあるのです。

「解決不可能性による内破」に直面し、この惨状を外へとそらす「戦争」に加担せず、あくまでも「解決不可能性による内破」をくぐりぬけて、その先へと想像力をのばさなければなりません。想像力、すなわちスプラッタ・イマジネーション(血しぶきの想像力)。

まずは、ホラー映画の二大傑作、ジョージ・A・ロメロの『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』(1968年)とトビー・フーパーの『テキサス・チェンソー・マサカル(悪魔のいけにえ)』(1974年)を観て、アメリカ社会とホラーの関係をたしかめます。

つぎに、イギリスのゴシック小説と、アメリカで栄えたモダンホラーとのちがいを確認したうえで、一九九〇年代から現在まで、「ホラー的なもの」にかかわる文学上の試み、村上春樹・龍、小野不由美(アニメ版「屍鬼」を含む)、貴志祐介、宮部みゆき、目取真俊、岩井志麻子、乙一らの作品、さらにはゼロ年代「壊れ」の文学、ホラー系ケータイ小説、最新ホラー小説を徹底的に読みこみます。

もちろん、エドワード・ゴーリーの陰鬱なる快作『ギャシュリークラムのちびっ子たち』などにも言及しないわけにはいきませんし、岡崎京子の乾いたホラー『リバーズ・エッジ』にもふれなければなりません。それにしても、ホラーといえば、戦争グロなんてカンケイナイあの純エロな早見純がなつかしい? なお、本講義は『ホラー小説でめぐる「現代文学論」 高橋敏夫教授の早大講義録』(宝島社新書)をテキストとして使います。(講義内容・講義計画の詳細はWeb上の講義要項を)

 

×   ×   ×   ×   ×   ×

 

授業の到達目標

ホラー小説他の考察から、文学・文化および主体のありかたをとらえる。

 

×   ×   ×   ×   ×   ×

 

授業計画

<講義への導入として――たとえば、こんなマンガのコトバにふれてみましょう>

 月に一度 月の消える夜があって。その夜が明けると 「パタン」 ウソの両親がやってくる どこがどうウソかというと……… 「ナオミや。」 わたしのことをヘンな名前で呼ぶことだ。その名は ドブドロのニオイがして 「げーっ」 思わず吐いてしまう。「うげー」 そうしてウソの両親はナオミの好物だといって ひからびたドーナッツを3つ差しだし 「ナオミは小さい頃は西部劇が好きでした」「ナオミは郵便屋に舌を抜かれましたよ」「ナオミは飼っていたカナリアに目をつぶされましたよ」 気味の悪いウソの思い出をわたしにおしつけようとする。 近所のふみきりで足の悪いおばさんがはねられました 竹やぶの中には戦争中の兵隊の死体があります 裏の川には毒が投げ込まれています………嫌になったわたしが「おとうさん、おかあさん。やっとわたしにもトモダチができました」とトモダチのことをきりだすと 彼らの視線が不安と期待でわたしにそそがれる 「トモダチの名はザカリアス 彼は射手座のB型 実家は鉄工場で 羊の皮をかぶった人殺し 子供を八つ裂きにし その臓物をすすり 一晩に七つの夢を見て 紫のカギ爪は毒なので触ってはダメ。夜になると わたしの部屋にしのびこみ 首をしめるが 殺しはしない。目を離してはダメ。彼の目から目を離しては。なぜなら だって彼は 黒い運命の使者であり 背後にひそむ者の影であり わたしのわたしの わたしのわたしのわたしの わたしのわたしの………トモダチのザカリアスは!」気がつくとウソの両親は すでに 小さな二つの黒いしみ すすり泣きと共に ドアのすきまにすいこまれて ゆく そしてその夜から また月が生まれる。(このところ、どんどんオモシロクゆがんでいくマンガ家しりあがり寿の『ア○ス』ソフトマジック刊より)

<講義全体のイメージとして>

 ああ。書き写すうちに、すっかり、しりあがりさんにやられてしまいました。ここではとりあえず、ホラー的なものがうかびあがる「心的な場」をたしかめるにとどめ、気をとりなおし、教員であるわたしに戻らねば……。

 ホラーの現在をあきらかにするために、この15年のホラーの歴史を考えます。バブル崩壊以後の10年は、一般には「失われた10年」といわれていますが、ホラーにとっては「豊饒の10年」でした。この事態は2009年の現在においても変わりません。「失われた15年」「崩壊の15年」には、「豊饒の15年」。この社会にはホラーという血塗られた墓標がいたるところにたっているのです。

<『ホラー小説でめぐる「現代文学論」 高橋敏夫教授の早大講義録』(宝島社新書)の「まえがき」・本講義の導入として>

 「他人には絶対に言えないことを、あなたはどれだけかかえていますか」―――わたしは、文学部にはいってきた人たちはもちろん、これから文学部にはいりたいという人、入ろうか否か迷っている人にも、機会あるごとに問いかけてきました。
 ひとつか、ふたつぐらいなら、わざわざ文学部にくることはない。軽症、いやかすり傷程度。政治でも、経済でも、法律でも、教育でも、これからの人生で有用な勉強に邁進すればよい。
 しかし、それがもっと多くて、かかえきれないほどあるのなら、大学のなかでは(大学に狭く限定すると)、もう、文学部しかない。
 「他人には絶対言えないこと」の大半は、自分じしんもまたあまり見たくないもの、考えたくないものであるはずです。さびしさ、むなしさ、無関心、嫌悪、憎悪、嫉妬、うそ、虚栄心、孤独感、性的関心、破壊欲、消滅願望……こんな心理、感情、欲望にうながされた暗い体験の数々。もしかすると、そこには「犯罪」に近接する体験もあるかもしれない。ネガティブなものだけでは、けっしてない。過剰な理想追求、未知の善や美への渇望といった、並外れてポジティブなものもふくまれるでしょう。
 こうならべてみると、自分じしんが見たくない考えたくない、そして「他人には絶対に言えない」ことは、わたしたちの生の大きな部分を占めているのがわかります。これをないものとみなしたら、わたしたちの生はとてつもなく痩せてくるでしょう。
 にもかかわらず、世間的常識では「有用」と「実用」にはつながらないばかりか、邪魔でいとうべきものになる。だから、有用な学問である経済学や政治学、法学や教育学などでは排除されるか、または矯正の対象になってしまうのです。
 文学をふくむ芸術は、自分じしんが見たくない考えたくない、そして「他人には絶対に言えない」ことをまるごとすべて、たしもせずひきもせず、あるがままに肯定するところからしかはじまらない。とくに、ネガティブで、醜悪で、ゆがみねじれているような心理、感情、欲望を大胆に肯定する。世間の大半を敵にまわしても、徹頭徹尾、擁護する。
 あなたは、そこにとどまってもよいし、またそれをくぐり別のなにかにむかって歩きだすのもいい。そこから解放されるのだとしても、それを遠ざけることによってではない。ヘーゲル流にいえば、わたしたちはそこから解放されるのではなく、それをとおして、ただそれをとおしてのみ解放されるのです、いまとはまったく別の関係と環境、つまりは新たな世界の実現のさなかで――。
 文学をふくむ芸術では、最終的には誰も力をかしてくれない。しかし、あなたを非難し、強制あるいは矯正する者は誰もいない。
 自分じしんが見たくない考えたくない、そして「他人には絶対に言えない」ことを肯定し、それらをつつみこむ生の全体を、言葉やイメージや音の微細な、あるいは絢爛たる炸裂に変える、たったひとりの「教科書」のないいとなみを持続しよう。
 そのとき、あなたは、ひとりではない。ここでは、ひとりではいられない。たったひとりのいとなみを、それぞれに夢想する人たちが、相互に共感をもって接する暗黒のパラダイス、世間的光明のただなかに突き出た暗黒の砦なのですよ、文学部は。
 「有用」と「無用」、常識と違反、明るさと暗さ――なんとも古風な「文学」主義、そして「文学部」主義、と思う人もなかにはいるかもしれません。しかし、現在、世界大の「帝国」が総括するグローバリゼーションの、「新しい戦争」を突端とした暴力的な浸透のなか、「有用」で「明るい」勝者が言祝がれているのをまのあたりにすれば、それらと抗争する「文学」主義も「文学部」主義もまた、静かに回帰しつつあるのではないでしょうか。
 むごたらしさがひたすら連鎖する物語をあつかう、わたしの「ホラー論」は、その意味で、現代文学入門講義のみならず「文学部的なもの」への入門講義になるはずです。
 ここでのホラーは、主として「ホラー小説」。ホラー(horror)とは恐怖ですが、テラー(terror)の「畏怖」に対して、生理的な嫌悪感からくる「おぞましさ」を意味します。「畏怖」が自分を超えた外部への恐怖であるのにくらべると、「おぞましさ」は自分をふくむ内部への恐怖です。ホラーは外部を失ってしまった時代の恐怖といえるでしょう。
 ホラー小説嫌いの人は、怖いもの嫌いという以上に、こんな恐怖の連鎖などありえない、ウソっぽいと感じているようです。たしかにホラー小説は、恋愛小説でいつでもどこでも恋愛だけが出来(しゅったい)し、経済小説で人が苛酷な経済マターにばかりふりまわされ、ミステリーであらゆる細部が大きな「謎」によって緊迫するように、恐怖の出来事の連続また連続によってできています。こんなこと、わたしたちの日常にはありえない。しかし、日常をよくみてみると、まったくないとは断言できない。かすかに、ひっそりと、恐怖の出来事は日常のそこここ棲みついています。ホラー小説はこの極小の兆しまたは痕跡を極大化する。恋愛小説が「恋愛」を経済小説が「経済」を極大化するように。わたしはこれを「極大化の方法」、「極端化の方法」または「前景化の方法」と呼びます。この方法により、わたしたちはわたしたちしじんの恐怖を明視することが可能になるのです。「SFがほんとうにうまくしごとをしたとき、それは見知らぬものを飼い慣らしたりしない。それは飼い慣らされたものを見知らぬものにする。それはわれわれを旅に連れだし、そこでわれわれは見知らぬものに出会い、その見知らぬものが自分自身であることを知る」(R・スコールズ)。これはホラー小説でも変わりません。
 わたしたちの時代のホラー小説とともに、奇異なホラー世界へと旅立ちましょう。ひとめぐりしたのち、奇異でむごたらしいホラー世界がわたしたちの世界であり、恐怖の連鎖に直面するのがわたしたちじしんであることに気づくはずです。さあ、勇気をだして。



<授業計画>

1 オリエンテーション

a ホラー小説と『蟹工船』とプレカリアート文学と
b 「ホラー的なもの」の出現にたちあうとはどういうことか
c 1993年以後の「ホラー小説」「ホラー映画」「ホラー漫画」他の概観
d なぜホラー作家には女性が多いのか 阪東真砂子・恩田陸・小野不由美・宮部みゆき・岩井志麻子の到達点

2 ホラー的なものの定義

a ホラーの一般的な定義
b ホラー的なもの=解決不可能性による内破
c 1993年にはじまる「ホラーの時代」はいまもつづいている

3 〈帝国〉時代の戦争論

a なぜ戦争は始まるとすぐ見えなくなるのか
b 隠蔽の総力戦がたたかわれる
c 〈帝国〉論と〈戦争〉論 アントニオ・ネグリにふれながら
d 戦争とホラーとの関係

4 トビー・フーパーの『テキサス・チェンソー・マサカル(悪魔のいけにえ)』(1974年)を観る

5 『悪魔のいけにえ』解説

a エド・ゲイン事件の記憶と物語的変奏
b 「サイコ」と「悪魔のいけにえ」の関係
c ベトナム戦争とホラーとのねじれた関係

6 ジョージ・A・ロメロの『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(1968年)を観る

7 『ナイト……』の解説

a ゾンビものの意味
b 内部が壊れてしまっている……アメリカの内破が日本へ
c ウジェーヌ・イヨネスコの不条理演劇「犀」からゾンビへ
d 最新ゾンビ映画をめぐって

8 理論編1=ホラー的なもの――村上春樹のスティーブン・キング論をめぐって

a モダンホラーとはなにか
b クロネンバーグと「内破」のイメージ
c 春樹とキングとのちがい

9 理論編2=ホラー的なもの――恐怖か解放か

a ゴシック小説から
b メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』にふれて
c ホラーhorrorとテラーterrorのちがい

10 理論編3――カイザーとバフチンのグロテスク論からホラーをとらえる

a カイザー『グロテスクなもの』
b バフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』
c グロテスクなものをめぐる、カイザーとバフチンの対立
d わたしの『理由なき殺人の物語――「大菩薩峠」』を使って両者の対立を検討する
e 内破が希望に転じるとき

11 時代と作家編1=1988年秋以後

a 宮崎勤事件
b 角川ホラー文庫、ホラー文学大賞など
c 1995年という断線 何かが生まれ、何かが死んだ
d 1997年に起きたこと
e 桐野夏生論
f 村上龍論
g 貴志祐介論
h 小野不由美論

12 時代と作家編2=1999年以後

a 岩井志麻子論
b 目取真俊論

13 時代と作家編3=2001年から2010年まで

a 長崎少女殺人事件とホラー小説
b ゼロ年代世代文学の「壊れ」とプレカリアート文学登場
c 戦争文学論、戦争と演劇
d ホラー的なものの「偏在」から「遍在」へ

14 ふたたび、『蟹工船』とホラー的なものの関係を考える

15 全体のまとめと教場レポート

×   ×   ×   ×   ×   ×

 

教科書

高橋敏夫『ホラー小説でめぐる「現代文学論」 高橋敏夫教授の早大講義録』(宝島社新書)

×   ×   ×   ×   ×   ×

 

参考文献

高橋敏夫『理由なき殺人の物語―「大菩薩峠」をめぐって』(廣済堂ライブラリー)

 

×   ×   ×   ×   ×   ×

 

評価方法

試験 0%
レポート 70%
成績評価においては、その成績をA+(優)、A(優)、B(良)、C(可)、F(不可)の五段階評価とし、C以上を合格とする。A+、A、B、Cについては、課題に対する理解度、独創的視点の有無、文章表現の巧拙を総合して判定する。
平常点評価 30%
出席回数は授業回数の三分の二以上を必要とする。
その他 0%

 

×   ×   ×   ×   ×   ×

 


戻る